平成14年 指導者研修大会長門大会講演概要報告
講演「二十一世紀のまなざし・金子みすゞ」 児童文学作家 矢崎 節夫 先生 今日はとてもきれいな青空でした。こういうきれいな青空を、私たちみすゞさんのファンは「みすゞ晴れ」という言い方をします。 「今日は、みすゞ晴れだね」というファックスが、全国三十五カ所ぐらいある「みすゞ会」から私の家に入っているのではないかなと思います。「みすゞ晴れ」と言っただけで、なにかその一日がうれしくなる、そういう体験を金子みすゞさんの好きな人たちは今、実感しています。 ということは、人は言葉で自らのまなざしを変える力を持っているし、人の心を変える力を持っている、ということだと思っています。 一 わたしともうひとりのわたし ・みすゞコスモスの中心 金子みすゞさんという人は、「私」と「あなた」という見方をしない人でした。「私」と「もう一人の私」という見方をします。 だから、この世の中に無縁なものは一つもなく、すべて「私」と「もう一人の私」という二つあって一つだということをよく知っていた人です。昼と夜のように、光と陰のように、または見えるものと見えないもののように、二つで一つなんですね。でも、いつの間にか私たちは人間中心、自己中心、わたし中心で物事を見て来てしまった。 そういう二十世紀のある時期からの私たちの自己中心のまなざしを金子みすゞさんは今、変えてくれたというふうに思います。 金子みすゞさんの文学は、「金子みすゞさんの宇宙」という言い方をしています。「みすゞコスモス」という言い方をしています。 その、みすゞコスモスの中心は「大漁」という詩です。 大 漁 朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの 大漁だ。 はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう。 この詩に感動してくださったり、いいなあと思ってくださったら、入場券を手に入れたことになります。みすゞさんの宇宙の入場券を手に入れたことになります。 二 世の中の存在はすべてこだましあっていた ・五百二十編に共通するまなざし みすゞさんの宇宙には、五百十二編の星々があります。五百十二編の作品を残してくれたからです。その五百十二編の共通するまなざしは、「こだまでしょうか」というまなざしです。 こだまでしょうか 「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。 「ばか」っていうと 「ばか」っていう。 「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。 そうして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、 いいえ、だれでも。 この世の中の存在は全部、「こだましあい」だったんですね。 私たちがお母さんのお腹で一つの命をいただいたときから、あるときからお母さんの心音がトクトクと鳴り、赤ちゃんの心音がコクコクと鳴り、そして心音と心音がこだましあっているから赤ちゃんは安心して、まるごと受け入れてもらう自分の存在を、安心して大きくなって、この世の中に生まれることができました。 例え、この世の中にその子が生まれなかったとしても、その子はこの世の中に生まれずに去っていったとしても、それまでお母さんは完全にお母さんをやってあげた。それは、「こだま」という行為をしてあげることによって初めて、お母さんは「素敵なお母さん」だということだと僕は思います。 ・かつて私たちの周りにいた素敵な大人たち かつて、私たちの周りにいてくれた素敵な大人の人たちは確実にこだましてくれた人でした。こだまといのは、ヤッホーというと、まるごと受け入れて「ヤッホー」って帰ってきます。そのときに、帰ってくる大きさは半分になります。 例えば、私が転んで「いたい」と言った時に、私の両親やおじいちゃん、おばあちゃんは、「いたいね」って私の痛さを受けてくれました。そして、「いたいね」って返してくれた。お父さんもいました。 とても残念なことに、そのときから、その方はお母さんを止ゆ始めたということです。お父さんを止め始めたということです。 なぜならば、「このお父さんなら、このお母さんなら、愛してくれると思って生まれてきてくれた子どもたち」です。愛してくれると思ってくれたお父さんやお母さんが、私の痛さを、僕の痛さを、「痛くない」と言ってしまったときに、その子の痛さは一度も消えることはなかったのです。 一方的に否定し、一方的に「泣くな」と励ます行為には、その前に「やさしさ」という行為がなければいけないのに、いつの間にか私たちは厳しいことが、強いことが、子どもを素敵に育てるというふうに大きな誤解をしたのですね。 だから、素直な子や、いい子や、やさしい子と言われればいわれるほど、中学生ぐらいになると、もうその器が一杯になっちゃう子がいるんですね。彼らは自分の痛さを大好きなお父さんやお母さんに否定され、一方的に励まされることで何をしたかというと、その痛さを全部、自分の心の器に生のまま押し込むしかなかったんですね。 その押し込む表情を私たち大人は、痛さを消している表情だと思い、痛さを我慢している表情だと一方的に思った。 自分の痛さを否定され、自分の痛さを一方的に励まされてうれしい人は、この世の中に一人もいないのに、私たちはわが子に対してはそれをやってきた、そんな気がします。 だから、中学生ぐらいになっちゃうと、ほんとに一杯になる子がいるんです。その一杯になった器に、新しい寂しさや悲しさや辛さに出会ったときに、もう器に入れられないから彼らはどうするかというと、一度、その器をひっくり返して空にしなければいけなかったんですね。その空にしたときに、周りにいる大人は何ていうかというと、初めて気がつくんですね。 ・時代を変えたのはうなずくことを忘れた大人たち どう気がつくかというと、「なんであんないい子があんな事するんだろう」「なんであんなやさしい子があんなこと言うんだろう。恐いね」、平気で言ってしまいました。 でも、その状況に押し込んだのは一度も痛い時に「いたいね」ってこだますことをせずに、うれしいときにも「うれしいね」って受け入れてあげることをせずに、一方的に、「痛くない」と否定し、「頑張れ」と励ましてきた結果が、そうなったことを忘れて世の中のせいにします。 「時代が変わったね」「社会が変わったね」「学校も変わったね」と。 でも、時代を変えたのも、社会を変えたのも、学校を変えたのも、子どもではありません。僕を含めた多くの大人がちゃんとうなずいてあげたら、ちゃんと受け入れてあげたら、たくさんの子ども達の心はやわらかさでいっぱいになっていたはずなのに、私たちはそれをいつの間にか忘れました。 だから、今、金子みすゞさんは甦ったんですね。みすゞさんのまなざしの中心は「こだましあう」ということです。すべてをまるごと受け入れるということ。 これは大人同士でもそうです。大人同士で、だれか、何かを話をしているときに、最初に「それは違う」と否定されたら、多分その後に会話は成り立たないでしょう。僕のような傲慢な人間は最初に言ったことを否定されたら、多分、相手の言うことも聞く気はない。それなのに、わが子なり私たちの周りにいる素敵な子ども達は、「聞くものだ」と一方的に思っているとしたら、それは私たち大人がいかに傲慢になったかということだと思います。 だから今、金子みすゞさんは甦ったんですね。 もう一度、うれしいことを思い出しましょう。みんな、かつて経験したうれしいこと、おじいちゃん、おばあちゃんはとっても上手に受け入れてくれて、「いたいの、いたいの、飛んでいけ」という呪文をかけるまでに、本当に痛さを受け入れてくれた。あの、まなぎしを、もう一度、私たちが思い出せたら、どれだけ未来の大人である人たちが幸せになるかわからないということだと思います。 三 最良最善の存在はこだましてくれること ・さびしいこと「で」なくなる だから、同じ事をみすゞさんは、「さびしいとき」という作品でうたっています。 さびしいとき 私がさびしいときに、 よその人は知らないの。 私がさびしいときに、 お友だちは笑ふの。 私がさびしいときに、 お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに、 仏さまはさびしいの。 僕は、この詩に出会うまで、神様や仏様は、祈ったり願ったりしたら、僕のさびしさや悲しさを取り除いてくれたり、代わってくれるものだと思っていました。 でも、みすゞさんは「そうじゃない」って言うのです。「最良最善の存在はこだましてくれる」と言うんです。さびしいときに「さびしいね」ってこだますことで、さびしさを、半分に、半分に、半分に、半分にしてくれて、いつの間にか「さびしい事が」なくなるのではなくて、「さびしい事で」なくならせてくれたわけです。 さびしさや、悲しさや、辛さ、というのは、私たちが生まれたときから絶対に消えることはありません。 それは「生老病死」というお釈迦様のことばにもあるように、私たちは他の命を食べなければ生きられないという、根源的な悲しみや、いろんな悲しみの中で実は生きている。だからこそ、大切な存在がいつも自分の中にいてくれて、そのお父さんやお母さんも含めて、こだましてくれることによって、絶望することなく、寂しさで全体を覆われるのではなくて、寂しさが少しこう、そっと横に寄ってくれることによって「さびしい事で」なくなることがあるということだと思います。 とてもうれしいことに、みすゞさんは、「わたしがさびしいときに
/おかあさんはやさしいの」って言ってくれています。このお母さんは、わたしがさびしいときに「寂しくない」って否定していないんです。泣くなとか、頑張れとも言っていないんです。やさしくしてくれるって、言っています。
・やさしはとはこだましあうこと 「やさしさ」とはどういうことかというと、漢字で書くと
'「にんべんに憂」と書きますね、優秀の「優」ですから。つまり、憂えている人の横に立って、共に憂えてあげる行為が優しさだって書いているんです。
"やさしさとはこだましあうということ"です。お友達が寂しい時には、「さびしいね」って言ってあげることがやさしさだというわけです。 だとしたら、わが子が転んで「痛い」と言ったときに、「痛くない」といった人は、一度も優しい行為をしなかったということです。優しさと厳しさは一体なのに、私達はその優しさは、当然子ども達がわかっていると勝手に思って厳しさを一方的に押しつけたとしたら、もしかすると言葉のいじめを大人の私たちが、わが子にやっていたかもしれない。 だから今、金子みすゞさんは甦って、いつでもいいから、上手に「そうだね」って受け入れてあげられたら、どんなに未来の大人である子ども達は、未来を素敵な世界にしてくれるだろうか、そんな気が、みすゞさんの詩を読みながらしてきます。 ・本当に聞いてあげるということは じゃあ「わたしがさびしいときにおともだちはわらうの」、どうしてでしょうか。 この世の中で、自分ほど大事な人はいません。だから、自分の辛さや寂しさや悲しさをお友達に言える人はそれだけで幸いです。なかなか、言うことはできないのです。聞いてくれるお友達がいる人は幸いです。 しかし、私たちはお友達に「これこれ、こういう理由で寂しいんだ」って言うけれども、一番肝心な所だけはスッと除いちゃうんですよね。なぜなら、そこまで言ったら自分が惨めになるからです。やはり、自分は惨めにしたくないのです。 例えば、いじめられている子が「いじめられている」と言ったら、その子は自分の、「わたし」という尊厳を自ら崩すことになるから、いじめられているということを言えないというのが基本的なルールです。だから、周りの大人は気がつかなぎゃいけないのに、「言ってくれればよかったのに」というのは大変傲慢なことです。 なぜならば、どんなにいじめられていても、その人たちは「これは過激な遊びなんだ」と自分の尊厳を消さないようになんとか支えているにも係わらず、「それを言わなかったからわからなかった」というのは、それは大人ではない、と僕は思います。ほんとの大人というのは一人ひとりにどれだけたたずんで、その子のまなざしを感じてあげるかだと思います。 そういう意味では、私自身まだまったく大人になっていない自分だと思います。 だから、言えないところを感じてあげられるかどうかが、どれだけわが子を大事に思い、周りの子どもたちを大事に思うかどうかなんだというふうにも思います。 辛い事、寂しい事は語っても半分しか言わないというのが原則です。だから、お友達は「なんだ、そのくらいのことなら寂しくないじゃないか」って笑ってしまうんですね。でも、ほんとに素敵なお友達なら、そして、ほんとに素敵な大人の人だったら、その後で気づいてくれます。 「言った何倍も実は寂しいんだな」って聞いてくれることが、本当に聞くということであって、言った言葉しか聞かないとしたら、それは聞いていないとまったく同じです。だから、そういう受け答えしかできなかったら、子ども達は二度と言わないでしょう。 だから、「わたしがさびしいときにおともだちはわらうの」の、この一つだけでも、金子みすゞの詩というのは果てしなくいろんなことを考えさせられる深いものを持っていいるということでもあります。 .・傷ついたひとの「となりびと」 じゃあ、「わたしがさびしいときに、よそのひとはしらないの」って言っています。 よその人。お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんは血のつながりがありますから、よその人ではありません。先生も、先生と生徒ですからよその人ではありません。金子みすゞさんにとってのよその人は、まったくそれとは関係ありません。例えば、聖書のルカ伝の第十章にこんなふうに書いてあります。 「あなた自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」って書いてある。そこでイエス様に「私にとっての隣人はだれですか」って聞いています。そうすると、三人の例を挙げています。 ある人が、エルサレムからエリコに旅をした時に、大泥棒に会って大怪我をさせられて、道端に捨てられた。 それを向こうからユダヤ教の祭司が来て、見た瞬間に反対側に渡って通り過ぎていってしまった。 二番目に、レビ人が来ます。レビ人というのはユダヤ教の崇拝者ですから、同じことをやります。見た瞬間に反対側に渡って通りすぎてしまいます。 三番目に、サマリヤ人が来ます、サマリヤ人というのは一番迫害された人たちです。その人は見た瞬間に駆け寄って来て、持っていた葡萄酒とオリーブ油で傷を洗い、包帯を巻いて、自分が乗ってきたロバに乗せ近くの宿屋まで運び、一晩中介抱した次の日の朝、宿屋の主人にお金を渡して「私は四〜五日仕事をしてまた帰って来ますから、この人のことを頼みます。もしお金が足りなければ、その時支払います」と言って、去って行った。 さて、この三人のうちどの人がその傷ついた人の「となり人」であろうかって書いてあります。これは誰でも分かります。「痛みにこだましてくれた人」です。人の痛みを自分の痛みのように思って、手を差し伸べてくれた人です。 だから「わたしがさびしいときによそのひとはしらないの」の、よその人は隣人ではない人ということです。つまり、どんな血のつながりがろうと、先生と生徒であろうと、一度もこだましてくれることなく、痛い時に痛くないと言い続けてきたとしたら、私たちは基本的に子どものよその人になりかけてきたということです。 だから今、金子みすゞさんは甦ったんです。 このお父さん、お母さんなら愛してくれると思って生まれてきて、一番うれしい言葉を聞きたいときに、もしかしたら、私たちはその言葉を言わなくなったかもしれない。 四 誰もが居てくれるだけでいい存在なのに . ・地球はわたしたちのお母さん そのことを思い出させてくれる作品に「土」があります。 こういう詩ですね。 土 こッつん こッつん ぶたれる土は よいはたけになって よい麦生むよ。 朝からばんまで ふまれる土は よいみちになって 車を通すよ。 ぶたれぬ土は ふまれぬ土は いらない土か。 いえいえそれは 名もない草の おやどをするよ。 と言っています。 地球という存在は、私たち人間を入れたすべての動植物、鉱物も含めて、お母さんです。 「地球というお母さん」がいてくれたお陰で私たちは生まれました。その地球を生み出した
"「宙はおばあさん」です。「宇宙というおばあさん」がいてくれて、「地球というお母さん」がいてくれて、私たちは生まれました。
一番最後の子どもである人類だけが、とても傲慢にも自分たちのお兄さんやお姉さんに向かって、「これ役に立つ」「これ役に立たない」と言っています。でも、「地球というお母さんにとっては、すべて居るだけでいいのです。居てくれるだけいい存在なのです」この地球上のすべてのものは。 そして、人間にとっても同じです。「わが子は居てくれるだけでいいのです、存在してくれるだけでいいのです」いや、すべての子どもは、居てくれるだけでいいのです、存在してくれるだけでいいのです。「あなたは居てくれるだけでうれしいな」と言うのは大人の最低限度の仕事です。 でも、もしかすると私たちは、「あなたは居てくれるだけでうれしいな」というのを、ほんとに幼いときから言うことをしていなかったかもしれないのですね。 勉強できる、できないは次の問題です。言うことをきく、きかないも、まったく次の問題です。その子は、居るだけでいいのです。しかし、とても残念ながら私自身は、わが子が居るだけでいいという原因すら忘れていました。とても簡単なことなのに、本当は。 ・子どもが居なくなると大人は絶望するしかない 例えば、今、この瞬間に地球上から小学生か中学生以下の子どもが全部一瞬に消えてしまって、新しい命が生まれないとなったら、「皆さんは、昨日と同じ今日を過ごすことができますか」「今日と同じ明日を、過ごすことができますか」 多分、私を含めた多くの大人は絶望するしかない。 なぜならば、私達人類の命はあと数十年で終わってしまうからです。 私達大人が絶望することなく、昨日と同じ今日を過ごせ、今日と同じ明日を過ごせるのは、間違いなく命を未来に運んでくれる子どもという存在がいてくれるからです。夢や理想や希望を持たせてくれるのも、その子たちが居てくれるお陰で、私たちは、自分がもっとこんな人になりたいとか、こんな世の中になればいいなあという、そんなうれしい夢や理想を、希望を持たせてくれるのも、その子たちです。 その一番、根源である子どもたちに「居るだけですばらしいんだよ」って言わないとしたら、私達は何にも気がつかないで、ただ年を重ねただけだということかもしれない。 だから今、金子みすゞさんは甦ったんです。 やはり、うれしい言葉はきちっと言いましょう。そうすることによって、初めて、誰が育つかというと、自分が育つということです。「あなたは居てくれるだけでうれしいんよ」と言った後に、引っぱたくことできないですからね。その時にちょっと深呼吸をして、叱り方だって変わるかもしれないのに、私達はそのことをトーンと飛ばしてしまって隣の子と比べたり、なぜ宿題やらないのっていうことを先に言ってしまうけど、その前に、「まず居るだけでうれしいんだ」ということ、お父さん、お母さんを絶望させないだけですばらしいんだということは、大人である私たちは言わないといけなかったのです。 そして、ここにいらっしゃるすべてのお父さんやお母さんや、先生も、居るだけで良かったんです。皆さんのお父さん、お母さんを絶望させなかっただけで、もう十分役に立てたんです。人は、それだけで生きた意味があるのです。生まれた意味があります。 ・「この子はわたしたちの宝物です」 もっと大切な言葉すら、私達は言わなくなったかもしれない。あの神戸の地震の時に思い出させてくださる場面がありました。 神戸の地震の時に、お父さんとお母さんが耳の聞こえない方がいらっしゃいました。小学校五年生の女の子は耳が聞こえます。ですから、水の配給やお弁当の配給はその女の子がお父さんとお母さんに代わって取りに行きました。それをテレビがずっと映していて、最後にお父さんとお母さんとその子に座ってもらって、ご両親にその子について語ってもらいました。 まず、お母さんが画面いっぱいに出られて、こんなふうにおっしゃいました。「この子がいなければ、私たちは生きていけませんでした」と言いました。 次に、「この子は」と言った時に声が震えたんですね。 そこで、カメラマンは気がついてカメラをスーと引きました。そうすると、お父さんとお母さんとその子が座っていて、ご両親とも耳が聞こえませんから、口を開けていても言葉にはなっていなかった。手話をしていたのですね。その手話を「この子」が通訳していたのです。 最初に「この子がいなければ、私たちは生きていけませんでした」というのは、いつものお父さん、お母さんの言葉として通訳ができたんだけど、次に「この子は」と言った瞬間に、気づいちゃったんですね。今、お母さんが言っている「この子」って、私のことだって気づいてしまったので胸がいっぱいになって声が震えたのです。 お母さんは何て言ったかというと、「この子は、私たちの命の恩人です」と。 次にお父さんが手話をしました。その瞬間、女の子の目に涙がワーと溢れ、その涙をこぼさないように上を向きながら一言一言つむぐようにお父さんの手話を訳しました。 お父さんは何て言ったかというと、「この子は、私たちの宝物です」と言ったんです。なんていい言葉を、いい時にお父さんは言ってあげたんでしょうか。なんていい時に、その子は聞けたんでしょうか。間違いなく、そのご両親にとってその子は宝物です。 いいえ、「すべての大人にとってはわが子は宝物です」。 なぜならば、私達大人を絶望させることなく、昨日と同じ今日を過ごさせ、今日と同じ明日を過ごさせてくれるからです。 でも、もしかすると、こんなに誰もが聞いてうれしい言葉を、そして、ほとんど全ての大人がかつて聞いていたにも関わらず、わが子に言わなくなりつつあるかもしれません。 その後すぐに国立埼玉大学で、小学校・中学校の先生になる学生さん百三十人に聞いてみました。「皆さんは大学の四年生になるまで、おとうさん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃ
.ん、幼稚園、保育園の先生、小学校、中学校の先生、皆さんを一番愛しているべき大人から『宝物』って聞いた人は何人いますか」と。
百三十人のうち、十人しか手を挙げませんでした。私たちの国は、確実に大人がいなくなったということです。 大人というのは、年を重ねる行為ではありません。かつて自分が経験した、うれしい言葉や、うれしい行為を確実に未来の人に手渡して「大人」という仕事が成り立つのであって、もしかすると、ただ年を重ねた人として私たちは今ここにいるのかもしれない。 だから今、金子みすゞさん、甦ったんですね。 もう一度、思い出しましょう。一番うれしい言葉を。 百三十人のうち十人しか聞かなかったとしたら、二十一世紀のうちに「宝物」という言葉は消えるということです。この言葉が大人たちから消えるということは、どれだけ怖いことか。聞く方の子どももうれしいんだけれども、言うことで私たちが変われるスゴイ言葉なのです。「宝物だよ」って言った後には、さっきも言ったように、怒り方は変わるしかないのです。伝え方は変わるしかないのですね。「言葉は相手が変わる前に自分が変わるという力を持っているから素晴らしいのだ」と思います。 ・うれしい言葉は届けるのが難しい じゃあ百二十人の手を挙げなかった学生さんの、お父さん、お母さんは言わなかったかというと、多分そうではありません。みんな言っているつもりなんです。ただ、言うお父さん、お母さん、こちら側の都合で言っているのであって、相手が聞きたい時に言っていないから届いていないのです。それは大変怖いことです。親は言っていると思っているのに、子どもは聞いていなかったら、それは言わないとまったく同じです。むしろ、言わない方がマシです。言わなかったというふうに自分で気づくから。 でも、言っていて届いていないのは、言っていると安心していますから、それはとても怖いことだということです。 本当は、相手の心に添うように、相手の心に届くように、祈るように、願うように、大切な言葉を、繰り返し、繰り返し伝えなきゃいけないのに、私たちは大切なうれしい言葉と嫌な言葉を同じように平気で使ってしまうんですね。嫌な言葉は一回で確実に心に届いています。それにも関わらず、私たちは繰り返し繰り返し同じことを言って、漬物の重しのようにドンと載せて、その上でまだトンカチで叩いているようなことを平気でやるんですね。 それでいて、うれしい言葉は、都合がいい時だけパッと言ってしまう。うれしい言葉というのは耳障りがいいですから流れちゃうんですよね。うれしい言葉は流れやすいから、何度も何度も、いくつになっても繰り返し繰り返し言わなければいけないように多分なっているんです、言葉って。 もし、日本中の大人が一生懸命そのことをきちっとやってくれたら、嫌な言葉は一回でちゃんと届くということをぴっしり思い、うれしい言葉は届き辛いんだと思ったら、私たちは日々、うれしい言葉をできるだけたくさん言う大人になれるチャンスがある。そうしたら、この世の中はどんなにすてきになるんでしょうか。 うれしい言葉が溢れていたら、この世の中が死ぬ前にすでに浄土なのです。でも、残念ながら私たちは、うれしい言葉と嫌な言葉を同じだけ言ったとしたら、それは嫌な言葉が圧倒的に勝ちます。 だから今、金子みすゞさんは甦ったんです。 五 人の心を変える言葉 ・聞いて受け入れられるから 人の心を変えるのは、強い言葉や、激しい言葉や、きつい言葉ではありません。 私は昭和二十二年生まれですから、当然、学生運動をやっていました。あの頃は、相手を叩きのめすような言葉で、相手を非難する言葉で一方的に叫んでいて、世の中を変えたいという望みはありました。 でも、まったく変わりませんでした。 しかし、今、金子みすゞさんが甦って、たくさんの人のまなざしが、自分一人ではなくて、こちら側と向こう側、両方から感じられるだけのまざぎしを持てるようになったのは、みすゞさんの詩の中には、やさしくて、やわらかくて、たおやかな言葉しかないからでしょう。やさしくて、やわらかくて、たおやかな言葉だけが、人の心を変える力を持っているんですね。 なぜなら、聞きたいからです。聞いて、受けられるからです。でも、嫌な言葉って受けたくないんですよね、本当は。だから、できるだけうれしい言葉を子どもたちの中に伝えてあげられる自分でありたいと、僕自身が今そう思っています。 本当は、私たちは生まれだけでもう十分なんですね。それを、みすゞさんは「はちと神さま」という詩で書いています。大きなこだまです。 はちと神さま はちはお花のなかに、 お花はお庭のなかに、 お庭は土べいのなかに、 土べいは町のなかに、 町は日本のなかに、 日本は世界のなかに、 世界は神さまのなかに。 そうして、そうして、神さまは、 小っちゃなはちのなかに。 ・うれしい自分として生まれたのに 私から出てぐるっと戻ってきます。すべては、そうやってこの世の中は成り立っています。涙も同じです。皆さんがポロンと流す涙は、海の水や川の水と同じく数パーセントは蒸発します。確実に太陽のエネルギーによって蒸発していきます。蒸発して空に昇って雲になります。雲になって、冷えて、この地上に戻って来るまでに約八十年かかるんだそうです。それは物理学者の佐治晴夫先生が計算してくれました。 金子みすゞさんが今生きていれば今年(平成十四年)九十九歳です。来年、生誕百年ですから。私たちは今年の雨の中に「九十九引く八十」で「十九歳」のみすゞさんの涙に出会っているということを、各地のみすゞ会の人とともに知っています。 見えるものの中から、見えないものを感じられるかどうかは、素敵な大人になれるかどうかの、とても大事なことなのに、そういうことを教えてくれる人が少なくなったような気がします。 ということは、生まれて数力月で亡くなった赤ちゃんでも、二歳で亡くなったお子さんでも、または二十歳でなくなった人でも、残されたお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんにとっては、切なく、悔しく、はかない命であっても、一度この世の中に生まれて涙を流しさえすれば、その子の涙は八十年ごとにこの地上に戻って来て木を育て、草を育てて、未来の人に酸素をくれます。野菜を育てて、未来の人に命をくれます。 私たちは一度生まれて涙をこぼしさえすれば、果てしなく未来の人たちに、八十年ごとに役に立つことができるのですから、本当はもう何もしなくていいのです。それだけで十分なんです、私たち。 そんなうれしい自分であったら、最初からうれしい自分として生まれているのなら、本を読んだり、スポーツをしたり、勉強したり、お友達と遊ぶことで、自分がもっともっと素敵になったらもっといいなあ、と思えるから自分から何かをやりたくなるでしょう。けれども、そういうことを一切言わずに「なんであなたはできないの」と言い、痛いときに「痛くない」と否定し、「頑張れ」と一方的に励まし、そして「宿題しなさい」と一方的に言われる。そして隣の子と比べられたら、「私は何のために生まれてきたの」って思うかもしれない。僕なら、多分、思ったと思う。 そして、わが子も多分そう思っていたような気がするから、今、僕はとても辛い思いをして、もう一度、わが子に迎えられたいといつも思っています。 だから、金子みすゞさんは今、甦ったんです。 一番大切なことは、いつでも「遅いこと」ではなくて、気づいたときからが出発であって、私たちのうれしい言葉、「居てくれるだけでうれしいなあ」ということを、もう一度思い出せたらいいなあということだと思います。 六 みんなちがって、みんないい ・生まれながらに未来の人の役に立つから 今、日本中の小学生がほとんど全員が知っている詩が、「わたしと小鳥とすずと」です。ここには「みんなちがって、みんないい」という、とてもうれしい言葉が入っています。なぜ「わたしと小鳥とすず」で止まっていなくて、「と」が入っているかというと、「と」の下には地球上のすべてのものが、宇宙上のすべてのものが入っているからです。書ききれないから「と」で止まっています わたしと小鳥とすずと わたしが両手をひろげても、 お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、 地面をはやくは走れない。 わたしがからだをゆすっても、 きれいな音はでないけど、 あの鳴るすずはわたしのように たくさんのうたは知らないよ。 すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。 「あなたは、あなたでいいの」って言っています。 なぜ、あなたは、あなたでいいのでしょうか。生まれながらに未来の人の役に立つから。お父さん、お母さんを絶望させないだけで、もう十分、あなたはあなたでいいのです。 そして、「誰もが百点満点で生まれています。」私たちは百点満点で生まれて、百点満点で死ぬことができます。どんなに国家権力であろうと、どんな独裁者だろうと、個人の尊厳という百点満点は誰一人として傷つけることはできません。 もし、自分の尊厳の百点満点を傷つけるとしたら、たった一つです。人を傷つけても、自分だけが楽しければいいと思うこと。人をいじめても、自分だけが楽しめばいいと思うこと。そういうことによって、自分の百点満点の尊厳を自ら減らすことはあるけれども、そうでない限り、すべての人は百点満点で生まれて、百点満点で死ぬことができます。 だから、例えテストが〇点でも、その子はテストが○点であっても、その子の存在は百点満点です。テストを百点取った子は、その子はテストは百点満点だけれども、その子の存在も百点満点なんです。 基本的には、尊厳としての百点満点は誰一人として変わりはありません。だから、この世の中に、すべての人が居るだけで素晴らしいということです。 ・人を傷つける人は入れない 大阪の五年生は教育出版の「みすゞ探しの旅」という教材を勉強しているので、五年生が僕に「みんなちがって、みんないいのなら、人を殺す人でもいいのですか」と聞いたことがあります。 実は、金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」のなかには、人を殺したり・いじめたり、傷つける人は入れません。なぜかというと、「わたしと小鳥とすずと」の前に、みすゞさんの宇宙の中心星である「大漁」という詩があるからです。 大漁 朝やけ小やけだ 大漁だ 大ばいわしの 大漁だ。 はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう。 という、この詩があるからです。 金子みすゞさんという人は、この山口県というとても素敵な所に生まれて、いろんなことを考えました。僕は、山口県というのは、もしかすると日本の中でも特別な所だと思うのです。 なぜならば、私の師匠である「まど・みちお」先生も、この山口県徳山の人です。まど先生とみすゞさんは、まったく同じまなざしを持っています。みすゞさんが書いたと同じことを、まど先生は幼児、小ちゃな子どもがわかる言葉で書いている。 北原白秋、野口雨情、西条八十とか、素敵な詩人、三大童謡詩人という人はいるけれども、僕は金子みすゞと「まど・みちお」というのは、これから永遠に光り輝く二つの大きな星だと思うのです。そのお二人が皆さんのこの風土で生まれたということは、ほんとに誇りに思っていいことだと思います。 ・いのち年は四十億五十五歳 みすゞさんは、いわし君の命も、にんげん君の命も、命は同じということを知っていました。「どちらが大切」って聞かれた場合には、にんげん君の命の方が大切です、人間にとっては。でも、いわし君にとってはいわし君の命の方が大切です。いわし君は絶対に、「僕よりにんげん君の方が大切だよ」とは言いません。 ただ、私たちは他の命が私たちより劣っているから食べるのではなくて、命は命によってしか支えられることができないから、他の命を「いただく」しかないのですね。根源的な悲しみというのは、そこから生まれます。だから宗教の前の、祈りをして食事をします。 「あなたの命を私の命に生かさせていただきます」。「いただきます」というのは、これは宗教の前の命に対する祈りです。 なぜ、いわし君の命とにんげん君の命が同じかというと、「いのちの年」と、「いのち年」ということを考えるとわかります。この場合の「いのち」は平仮名です。「いのちの」まで平仮名で、「年」は漢字です。 僕は今、五十五歳ですから、僕の「いのちの年」は五十五歳です。皆さんも、皆さんの「いのちの年」は自分の年齢です。でも、ぼくの「いのち年」は四十億五十五歳です。皆さんも、皆さんの「いのち年」は、自分の年齢プラス四十億です。 三十六億という学者もいますけど、僕は四十億と言います。なぜならば、四十六億年前に地球ができて、四十億年前に海に一つの命ができて、その命が切れることなく三十億年近く海にいて、植物が先に上がって二酸化炭素を吸って酸素を出してくれたお陰で、お魚は両生類になり爬虫類になり、哺乳類になって、ついこの間、私たちはホモサピエンスという器に命をいただいて今ここにいます。その間に命は一度も切れたことがないから、すべての人はここにいることができます。 誰もが、その経験を全部やって生まれています。赤ちゃんのとき、皆さんはお母さんのお腹の中で三十二日目には、古代のお魚の顔をしていました。三十四日目には、両生類の顔になりました。三十六日目には、爬虫類の顔になりました。三十八日目に哺乳類の顔になって、四十日目近くに人間という表情になります。 三十二日目から四十日目の間のわずか一週間ちょっとのぐらいの間に、エラ呼吸から肺呼吸という、海から陸へ上がる四十億の経験を一挙にやるから、
.お母さんはツワリという経験をします。だから、「私はずっと人間だよ」と言っても見えないものは感じていないだけであって、皆さんは、ずっとわが子をお腹に入れ育てた時から、四十億年の経験を皆さんのお腹の中で全部やっているということですね。
・命の本質は一回きりの光輝く存在 その中で一番大切なのは、誰もが自分を一回しかできないということです。小学生の人に聞いてもよくわかります。世界で一度しかないものと二度も三度もあるものと、「どっちが宝物」「どっちがうれしい」って言うと、「当然だよ、そんなの。一回きりだよ」って言ってくれます。「一回きりだから大切で美しい命」なのです。一回きりだから大切で美しい皆さん一人ひとりだし、私たち一人ひとりなんです。この世の中に自分を二度やれる人は一人もいません。すべてが一回きりの光輝く存在であって、誰一人として尊くない人はいないのだから、傷つけてはいけない、いじめてはいけない、殺してはいけない、というのは命の本質です。 ですから、みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」は、その命の本質を無視する人は入れないのです。人を殺したり、いじめたり、または傷つける人は入れません。ただし、今までやっていても「もうしない」と決めたら、すぐに入れる世界が「みんなちがって、みんないい」です。 とてもうれしいことに、小学生の人にお話をしても小学生は「僕、もういじめるの止める」って、ちゃんと言ってくれます。なぜならば、「みんなちがって、みんないい、に入れないのは寂しい。僕も僕でいいんだよね。だから、もう僕は人を絶対にいじめないようにします」というお手紙もたくさん来ます。それが実は「みんなちがって、みんないい」の本質です。 ・好き嫌いはしてもいい 違う言葉で言うと、「みんなちがって、みんないい」は、「まるごと認めて傷つけない」ということです。すべての人をまるごと認めて傷つけない。 ただ、僕は、好き嫌いはしてもいいと思っているんですね。なぜならば、僕自身好き嫌いがあるからです。例えば、飛行機に乗るためにモノレールに乗ろうとして機械に五千円札を入れると、「この五千円札イヤだ」という機械がいるんですよね。「シワが寄っているからかな」と思ってシワを伸ばしていれても、「イヤだ」っていう機械がいるんです。裏だからかなと思って表にして入れても「イヤだな」っていうのがあります。 僕、三回イヤだなって言われると「君はわがままだね」って一応、機械君に言うことにしています。ただ、周りに人がいるときは声に出さないで心の中では言います。そうしないと皆さんが、スーと離れてしまいますから、それは気をつけます。 つまり、命のない機械ですら好き嫌いはするということです。感情の動物である人間が、生まれも育ちも違う人間が好き嫌いしないわけがないのです。好き嫌いは当たり前のことなんです。ただ、嫌いでも無視してはいけない、傷つけてはいけない、透明人間にしてはいけない、排除してはいけない。それをしないと、「みんなちがって、みんないい」の中には入れません。 どうして嫌いな人がいるのでしょうか。道元禅師は美しい三段論法で「我、ひとに会うなり。人、ひとに会うなり。我、我に会うなり」という言い方をしています。つまり向かい合った人がもう一人の私です。向かい合った人を僕は「嫌いだ」と思うのに、不思議なことに僕が嫌いな人を「好きだ」という人がいるのです。僕が好きだという人を「嫌いだ」 という人もいるのです。 どういうことかというと、僕が嫌いな人は、僕の中にまだ出てこないけれども、ある嫌な部分を先に見せてくれるから嫌なんですよね。自分の中に有るものが見えるから、よけい嫌なんです。じゃあ、素敵な人はどうかというと、僕の中にまだ出てこないけど「ああ、そういうことが自分もできたらいいなあ」と思って、自分を育ててくれるから素敵な人なんです。 だから、私にとっての嫌な人は世界中の人にとって嫌な人ではないのです。つまり、私がその人の嫌な部分を、その人の嫌な部分と思って、自分の嫌な部分を見ただけですから何も相手には罪はないということです。 じゃあ、その人とずっと友達でいた方がいいかというと、僕は「はい、次の方」って言って次を探します。そのために、世の中にはたくさん人がいるのです、素敵な自分を見せてくれようとして待っている人が。それをズーと毎日嫌な自分しか見せてくれない人とは、僕は時間が勿体なくて一緒にいる時間は止めようと思います。だけど、その人を無視してはいけない。傷つけてはいけない、いじめてはいけない。それが、みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」です。 だから基本は、好き嫌いはあって当たり前だといことだというふうに僕は思います。 「好き嫌いをしちゃダメだよ」と言われても、生まれも育ちも違うのだから、基本的には無理なんです。でも、嫌いでもいじめてはいけない。嫌いでもその人を、まるごと受け入れて、認めて、傷つけることをしてはいけないということを言うのは、私たち大人の仕事のような気がします。 ・平等に幸福になるためには不平等に愛することが 「まるごと認めて傷つけない」は、「愛するということ」です。これはお母さんの愛し方です。お母さんは二人お子さんがいて、二人が同じように元気なときには同じように愛情をあげても、二人とも元気で幸せになります。 でも、一人の子が寂しかったり悲しかったり、または怪我や病気をしたときには、お母さんは、元気な子にはちょつと辛抱してもらっても怪我や病気や寂しい思いをしている子にたくさん時間をかけます。声がけをします、愛情がけをして、抱きしめもします。そして、その子が元気になったら今まで辛抱してくれた子の方にたくさん愛情をあげ、たくさん声がけをします。 つまり、二人の子どもが平等に幸福になるためには、不平等に愛さなければいけないということです。平等に愛しているかぎり、ずッと愛情の足らない子は足らないままであり、余った子は余り過ぎるということです。学校の先生がクラスの子を平等に愛し続けているかぎり、クラスの悲しい子はずっと悲しいままです。一人ひとりにたたずんで、今日一番寂しい思いをしてそうな子にたくさん声がけをしてあげないかぎり、まなざしを向けてくれないかぎり、クラスの子が全員平等になることはできません。 つまり、「すべての人が平等に幸福になるためには、不平等に愛さなければいけない」ということです。 多分、七百年前に法然上人が口伝して親鷺聖人が伝えた「悪人正機説」というのはこれです。「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と言っています。善人という人は、自分の力でこっちから向こうへ泳げる人です。だから、「いいよ、僕自分で泳いで行くから」と言う人です。悪人という人は泳げない人です。又、「私なんかあっちに行っちゃいけない」と思っている人です。「私みたいな人間が」と。 でも、阿弥陀様は十八の本願で「すべての人を救う」と言っているから、阿弥陀様は「飛び込んでいいよ、私が運んであげるから。泳げなくたっていいよ、あなたが『私みたいな人』と言っても、それでもあなたは生まれただけで価値があるんだから私が絶対に救ってあげる、運んであげる」と救ってくれるのです。だから、阿弥陀様は平等にパッと救わないんです。こうやって(=合掌)、ちゃんと阿弥陀様を信じている人とか、泳げそうもない人、今一番辛い思いをしている人が先に行くようにするのです。 すべての人を不平等に救わないかぎり、全員が平等に向こう側に行くことはできないということです。それが「みんなちがって、みんないい」という言葉の一番大切なことだと僕は思います。だから、無視しないということ。それが、「みんなちがって、みんないい」なんですね。 ・相手にとっても「ちがうことがうれしいこと」でなければ 一つおもしろい例を挙げます。僕は落語が好きなんですけど、立川志の輔さんに「親の顔」つていう新作落語があります。それはテストの問題なんですけど、こういう問題が出ているのです。 「八十一個のミカンを三人で分けるにはどうすればいいか」って書いてあるんです。さて、どうしましょうか。八十一個のミカンを三人で分けるのに。私たちはみんな「八一÷三」ってやっちゃうんですよね。それが人間中心、自己中心なんですね。 その小学生の答えは、「ミキサーにかける」と言うんです。スゴイでしょう。ミキサーにかける。その理由がすごいんですよ。「だってね」って言うんです。「ミカンには大きいのと小さいのがあるでしょう」、まず見える違いを言うんですね。その後がみすゞさんなんです。何て言うか。「甘いのと酸
'っぱいのもあるじゃない」って。
多分、八十一個のミカンを三人で分けろと言った時に、私たちは甘いの酸っぱいのなんて考えていないんです。割ればいいと思っているんです。でも、その子は、見えない甘いの酸っぱいのを言うんです。そしてこう言います。「僕は甘いの食べたいサど、お友達が酸っぱいのは嫌だ」って言うのです。だから「とにかくミキサーに入れてしまえば味だけは一緒になるじゃない」って。 これは、金子みすゞさんのまなざしです。 お友達がうれしいかどうか、相手がどうか、なんですね。ともすれば、「みんなちがって、みんないい」を、私たちは自分が何かをやっても「みんなちがって、いいじゃないの」と使いがちです。相手にとっても「みんなちがって、みんないいね」っていうふうに思われない限り、それは単なる自分勝手だということです。 「みんなちがって、みんないい」を、私たちはもしかすると危なく使いがちになります。だから、やはり相手にとって「違っていい、ということがうれしいことかどうか」を考えることが大切だと思うのです。 ・子どもから見たらどっちがうれしいかな ただ、そんな素敵な子どもが生まれるためには、お父さん、お母さんがもっとすごい人じゃなきゃダメなんですね。お父さんは何て言うか。「バカだな、お前。それは完全な正解じゃないぞ」って言うんです。ほんとの正解は「いっぺんにはミキサーに入れられない」と言うんです。 すごいでしょう。八十一個のミカンはいっぺんには入れられませんよね、当然。 でも、そういうものの見方が、こちら側じゃなくて、楽しく向こう側から見ることができるというふうに、私たちが少しずつでも、自分サイドではなくて、子どもから見たらどっちがうれしいかなとか、そういうふうに考えただけで見えぬものが見えてくるような気がします。 多分、ここにいらっしゃる方の多くが小さなお子さんと手をつないだとき、みんなギュッっと手を握って「逮捕」していたはずですね。あのときの子どもは逮捕されているだけであって、手をつないだという自覚はあまりしないのです。大人の手の大きさと子どもの手の大きさでは、指一本が子どもの手の大きさなのです。だから、一本出してやってギュッと握ってると、向こうは「お母さんとつないでいる」と思いますが、ギュッと握られているときには逮捕だなと思って歩いたかもしれないのです。 婦警さんはプロですから、ちゃんとやります。迷子の子に話しかけるときに下から覗いて声をかけて、そして交番に連れて行く時には指一本出すんですって。恐がっていたのが泣き叫んじゃう。指一本出すと、子どもはギューと捕まえて歩ける。 世の中にはほんとのプロがたくさんいらっしゃるので、私たちはそういうことから少しずつ学んで、「そうか、小ちゃい子にとってはその方がいいのかもしれないな」って気づくといいのです。 例えば、私たちよりも小ちゃい子の方が夏は暑いんですよね、地面に近いから。犬が暑いのは地面に近いからだとしたら、子どもも暑いのです。そしたら、やはり、この子は暑いなと思って、「この子の位置だと私より暑いんだな」と思えたら、僕はそれはすごいプロのお母さんだと思うんですね、素敵なお母さんだと思うんです。 僕はそれができなかったけれども、今はわかります。ああ、そうすればよかったと思います。だから、早く孫が生まれるといいなあ、そうすると孫にはやってみたいと思います。まあとにかく気がついたときにもう一度やってみたいなというふうにも思っています。 七 こちら側とそちら側で一つ ・人が倖せになることが自分の倖せに 金子みすゞさんという方は、いつも、こちら側とそちら側で一つだというふうに見ているのです。お父さんとお母さんで一つです。そして、お父さんやお母さん「の子ども」であって、お父さんとお母さん「と子ども」ではないということです。 「の」と「と」の違いは、縦か横ですよね。「親の子」であり、「子の親」ですから、子どもは親にぶら下がっていいのです。でも、親の子ですから親は責任を取らなければいけません。 そこがピチッとできると、お友達って全部横線ですからプラスがたくさん増えてうれしいことがたくさん見えます。でも、もしかすると「親と子」にしちゃったんです。また、子どもと友達になろうなんて思っちゃった親がたまにいるんです。それは果てしなく無理です。多分、わが子は絶対僕を友達に選ばないですもの。「あんなに怒るお父さん、嫌だ」 と多分思うし。選んでもらえないから上下なんです。「私の子だよ」って、私は抱きしめるし、子どももおぶさっていいのです。 縦の線があるとお友達に出会ってたくさんのプラスがあって、「幸せ」という字ができるわけです。「つらい」という字は「辛い」という字でしょう。その上の方に横棒を引くと「幸」っていう字になるじゃないですか。だから、辛いことがなければ幸せにはならないということです。 金子みすゞさんさんの「しあわせ」は、その字ではありません。幸という字は自己中心の幸せです、自分の幸せです。今日もきれいなお花がたくさんありますけど、みすゞさんは「花屋のじいさん」で、こんなふうに教えてくれます。 花屋のじいさん 花屋のじいさん 花売りに、 お花は町でみな売れた。 花屋のじいさん さびしいな、 育てたお花がみな売れた。 花屋のじいさん 日がくれりや、 ぼっつり一人でこやのなか。 花屋のじいさん ゆめにみる、 売ったお花のしやはせを。 ここにあるお花が幸せであるためには、まず誰が幸せじゃなければいけないか。小学生の人はちゃんと答えるんですね。「お友達が辛い時、あなたは幸せですか」って聞くと、「ちがう」って言います。皆さんのお子さんも「ちがう」ってちゃんと言います。 では、お友達がどういうとき皆さんは幸せですか。「お友達が幸せなとき、私たちは幸せ」です。つまり、一人だけの幸せはないということです。一人だけの悲しさもないということです。 だから、花屋のじいさんがお花の幸せを願うということは、花を買った人が、花を見た人が、まず幸せになってくれなければ、花の幸せはない、ということです。だから、みすゞさんの幸せであり、二十一世紀の幸せは「幸」の横に「にんべん」が付いているのです。 「人が幸せ」であることが、自分の倖せ。「自分が幸せ」であることが人の倖せ。 本当は、私一人の幸せはない、私が幸せでなきゃお友達も幸せにないけれども、お友達が幸せじゃなきゃ私の幸せもないというところから、「倖せ」という字はにんべんが付いているのです。 この会場にはもう、国語の試験を受ける方はいらっしゃらないでしょうから、「幸せ」を書くときに、祈るようににんべんを付けてあげるといいです。大好きな人を一人置いて、わが子でも誰でもいいから思い出すように人を付けてくれるといいですね。小学生の人に言うと「僕もにんべん付ける」、「お友達が幸せじゃなきゃ僕イヤだもん」と言ってくれます。 皆さんの目の前にいる子どもたちはみんな素敵な子どもたちです。その素敵な子どもたちを、まず大人として言うべきことと、うなずき上手になることを私たちがやっていけたら、もう少し私たち大人にとってうれしいことがたくさんあるかもしれません。 できたら、皆さんのお子さんの誕生日に、ぜひ、お母さん、お父さんの誕生日を一緒にお祝いしてあげてほしい。皆さんは、お子さんが生まれたからお母さんになれたのです。お父さんになれたのです。おじいちゃん、おばあちゃんになれたのです。その子の誕生日は、皆さんがお母さんになった誕生日です。お父さんになった誕生日です。おじいちゃん、おばあちゃんになった誕生日です。 そうやって、三世代が命のつながりを持って来たということを、ピシッと、誕生日やなにかでやってくれたら、どれだけ命のつながりについて感じることができるかもしれないなあというふうに僕は思います。私だけが幸せじゃダメなんですね。私の幸せは家族の幸せであり、家族の幸せは私の幸せ、という思いをもし少しでも持ってくれたら、世の中変わるだろうと思います。 八 当たり前ってすばらしいこと ・「あなたが大切だから」という言葉を 山口県の人は、みすゞさんもいるし、まど先生もいるし、本来は皆さんが全員同じまなざしを持っている人達ですから、そのまなざしを、お子さんと一緒に少しずつ少しずつ育てていってくださったら、もう何も言うことはありません。 そろそろ時間ですから、最後に「こころ」という詩を読んで終わりたいと思います。 こころ おかあさまは おとなで大きいけれど、 おかあさまの おこころはちいさい。 だって、おかあさまはいいました、 ちいさいわたしでいっぱいだって。 わたしは子どもで ちいさいけれど、 ちいさいわたしの こころは大きい。 だって、大きいおかあさまで、 まだいっぱいにならないで、 いろんなことをおもうから。 未来の大人である人たちは、たくさんの言葉を聞きたいのです。。その心のまだ余っている所に「宝物だ」ということを、「いてくれるだけでうれしい」ということを、「生まれただけですごいんだ」ということを、そして「大好きだ」ということを、「叱る言葉」よりは何倍も言ってあげてくださったら、どんなに二十一世紀は素敵になるか分かりません。 当たり前のことを当たり前にできる人はすごい人なのですから。当たり前ってとっても素晴らしいことで、それは、うれしい言葉を言える人になるということです。 お父さん、お母さんから「宝物だ」って聞いたら、「お父さん、お母さんも宝物だよ」ってきっとこだまは返ってくるでしょう。あんをにいつもいつも「宿題しろ」って怒っているけど、「ああ、お母さん。私が好きだから怒っているんだ」という実感もできるでしょう。 でも、うれしい言葉を言わなければ、「お母さんは好きじゃないんだ」と思う子どもがたくさんいるのが現実です。お父さん、お母さんに「愛していますか」って聞くと、みん存「愛しています」って言うけど、ほとんどの子どもは「愛されていません」って言います。 理由が違うのですけど、「だってあんなに毎日怒るもん」って言うんです。「叱るのはあなたが大切だから」という前の言葉を減らしてしまうと、伝わり辛くなると言うことです。 「あなたが大切だから」「お母さんの子だから」「大好きだから」、これをこうしなければダメって叱ってあげたら、お母さんは私が好きだから言ってくれると思う。でも、そのことをポンと飛ばして「わかっているでしょう」って言ったら、絶対にわかっていないんだということ。 そのことも、なんかのときにちょっと思い出してくださるとうれしいです。 本当は「こんなことは当たり前のこと」とわかっているお話にもかかわらず、一生懸命聞いてくださった皆さんに心から感謝を申し上げながら終わりたいと思います。どうもありがとうございました。 【講師紹介】 やぎき せつお 矢崎 節夫 先生 児童文学作家 1947年(昭22)東京都生まれ。早稲田大学英文科を卒業。詩人 佐藤義美、まど・みちおに師事し、童謡・童話などの世界で活躍。 1982年(昭57)童話集「ほしとそらのしたで」(フレーベル館)で第十二回赤い鳥文学賞を受賞する。 また、童謡詩人金子みすゞの遺稿を見つけだし、「金子みすゞ全集」(JULA出版局)等、その作品集の編集・出版に携わる。 主著に童謡集「ぼくがいないとき」(雁書店)、絵本「うさこのサンタクロース」(フレーベル館)、「みみこのおはよう」(JULA出版局)、童話「せいくんとおねしょん」(小峰書店)、評伝「童謡詩人金子みすゞの生涯」「みすゞコスモス…わが内なる宇宙」(JULA出版局)等がある。